俺がお前に甘くなった日
「ルーク!ダメだって言ってるだろ。」
どうして聞き分けが良くないんだ、と若い使用人は目尻を吊り上げてルークを睨む
だが、ルークは彼が己に本気で怒ったりしないし、また出来ない事を理解していた
丁度憎まれ口を叩くようになったルークは口を尖らせてガイの言葉なんぞまるで聞こえなかったように手にしたナイフを振り回す
ヴァンデスデルカが剣術なんぞ教えるからこうなる!ガイは心の中で思い浮かんだかつての幼馴染を振り返り、小さく舌打ちをする
その間も目の前の子供は手にしたナイフを振り回し、不可思議な効果音を口走る一人遊びに夢中である
「ルーク!」
小さい声で怒鳴るがやはりこの子憎たらしい子供は知らん顔だ
わざわざガイに背を向けてしまう
記憶を失ってから、やっとルークが興味を示したのが剣術だった
ルークの母のシュザンヌは目を煌々とさせて剣術に打ち込む彼にこのナイフを与えた
いかにも金持ち思考で即物的ではあるがそれは体が弱く、ルークの面倒をあまり見てこれなかった母の最大限の愛情である事は分かっているが、今のガイにとっては邪魔な物以外何物でもない
「ルーク、聞こえないのか?危ないだろうが。」
楽しそうに揺れる赤い髪は振り返る事は無く、ずっと同じように動く
そもそも記憶が無くなる前と無くなった後は違いすぎる
まるで別人ではないか、ガイはため息を洩らし、しかし使用人としては主人(の息子)が危ない目に遭いそうなのを放っておく事も出来ない
彼が怪我をすることは全然全くこれっぽっちも気にしないが、その叱責が間違いなくガイに向いてくるのだ
なんでこんな馬鹿坊ちゃんの為に己が叱責されなければならないのか、しかも相手はいつかこの手にかけようと画策する公爵である確率が高い
幼いガイには耐えられない屈辱である
「ルーク!」
ガイは後ろからルークの両腕を掴み挙げ、その手に握るナイフを取り上げようとした
だが、相手も年齢こそ幼いが肉体的には立派な男児である
思いの外強く握られたナイフは簡単には取り上げられなかった
両腕の手首をガイが握ってはいるが、その手からナイフを取り上げるには手がもう一本必要である
だがガイの両腕は塞がっているし、彼の女性恐怖症でメイドに助けを求める訳にはいかない
外にいる白光騎士団を呼べば楽なのだがこの失態は確実に公爵の耳に入る
庭師をしているペールは簡単にルークの私室には入ってこれない
さて、どうしようかな等と曖昧に考えていた為か身動きの取れないルークが愚図り出した
ここで泣かれると厄介だという思いか、それともただ泣かれたくなかったのかは分からないが瞬間的に拘束が弛み、その瞬間を見逃さなかったルークは好機だとばかりに腕をぐっと伸ばす
如何に美しい装飾が施されていようと握られたナイフは貴婦人用の護身ナイフであり、公爵家婦人が直々に造らせたソレは切れ味も良く、咄嗟に顔を逸らす
が、どうあっても避けきれない切っ先はガイの頬を掠めた
瞬間、半ば反射的にガイはルークを押しやり、その頬を確認する
底まで深い傷ではないが鋭い刃である為流血は否めない
床に敷いてある高価な絨毯を汚さないように素早く袖で頬を抑える
見れば押しやった瞬間に足を詰めらせたルークが床に転がって驚いた顔でガイを見ている
本来ならば助け起こして謝罪の言葉の1つ掛けるべきではあるが、血の流れは激しくこの袖をずらせば鮮血が溢れる事は簡単に予想できた
「ぅわああぁん。」
耳に響くほどに大声を張り上げて泣くルークの膝は、確かに転がった時にぶつけたのであろう蒼く変色している箇所があった
あぁ痛いんだな、と理解したガイだがその傷を見てやるにも片腕は塞がっているし、じくじくと沁みていく袖の布がもう限界だと感じていた
するとそのルークの泣き声で外の白光騎士団が雪崩れ込んできた
膝を立てて泣きじゃくるルークを任せ、ガイはさっさと部屋から出て行ってしまった
「怪我をされたとか。大丈夫ですかな?」
同室で生活しているペールはタンスから清潔な布をガイに差し出す
短く礼を言って受け取ったガイはそっと頬の傷に触れる
「まぁ、我侭大王にも困ったもんだ。」
清潔な布に消毒液を含ませてそっと傷口を拭う
ぴりっと痛みが走るが、このまま放っておくと後が怖いので我慢する
すると部屋の扉がゆっくりと開いた
ノックもなしに開かれた扉にガイもペールも驚く
「誰だッ。」
鋭い声で名を求めると、半分だけ開いた扉から赤い髪が覗く
「ルーク・・・坊ちゃま?」
ペールは緊張を解きルークを部屋に招く
下を向いてペールに手を引かれるように入ってきたルークをガイは優しい笑顔で迎えた
「ルーク、どうした?」
ガイはルークの頭を撫でて優しく声をかける
「これ、ははうえが。」
そう言って差し出したのは高級であろう傷薬だ
小さい箱に入ったその薬をガイに差し出す
「奥様が?」
いくら優しい奥様であろうとたかが一般人である使用人一人の為にわざわざ傷薬を支給するわけが無い
ガイは怪訝そうにその傷薬を受け取る
見ればその薬は打撲用の軟膏で、切り傷用ではなかった
「ルーク、これ・・・。」
傷薬からルークに視線を戻せば、ルークの目と目が合った
ルークはすぐさま視線を下に逸らすが、ガイの目はルークの頬を捉えていた
「ルーク!!?どうしたんだこの頬!!!」
両腕でルークの腕を抑え、膝を付く
視線をルークに合わせ、彼の顔を見た
その頬は赤くくっきりと腫れており、口角はおそらく切れたのであろう傷が痛々しく残っている
ルークは黙ったまま何も答えない
「旦那様、か?」
ルークに手を上げられる人物なんてこの屋敷内には奴ぐらいしかいない
ガイはルークの顎を掴んで頬と口角の傷を見る
一瞬、痛そうに顔をゆがめたルークだが、顔を背けると余計に痛いことを学び取り大人しくじっとする
「痛かっただろう?」
ガイは先ほどの箱を開け、中から軟膏を取り出す
その軟膏を一つ救い、それをルークに伸ばす
「だめ。」
ルークは急にガイの手を叩き、その動作をとめさせる
「そのくすりは、ガイにもってきたんだ!」
ははうえがこれをぬれば痛くないっていってたから!、と震える声で言う
そう言うとルークはガイの手を振り払って部屋から逃げ出す
がしゃん、と盛大な破壊音が聞こえ、凄まじい足音が遠くなっていきやっとガイはその手を見る
いい匂いのする軟膏を入れ物に出来る限り戻し、蓋をする
その軟膏を大切そうに懐に入れて、ガイも部屋から走っていった
「ルーク・・・様!待ってください。」
同じく遠くなる足音を聞きながらペールは明日も晴れますな、と独り言を呟いた